生まれは1962年(昭和37年)8月8日です。本籍地は群馬県伊勢崎市南町(現・緑町)12。育ったのは同市今泉町2丁目の長屋で「文字通りの長屋」で六畳と四畳半に祖父母・両親・兄・姉の7人家族に従兄弟も1人預かっていました。 
近所の子供たちと兄弟のように分け隔て無く付き合えるという、良き時代だったような気がします。 

  小・中・高と地元でしたが「担任に恵まれた学生時代」で「根岸・浅野・木島・金井・三輪・佐藤・谷・戸所・大塚・狩野先生」と(もしかしたら字が違っているかもしれませんが)皆様素晴らしい方々でした。 
中でも小学校5・6年の担任「三輪晶一」先生がとても粋な方で、当時からゴルフに勤しむ快男児でホールイン・ワン記念にクラス全員(40人近く居たと思います)に漢和辞典を送るという粋な計らいをしていました。この先生の雑談がウィットに富み、小粋でいまだに大変影響を受けています。
 誠に残念ながら1999年6月に逝去されました。『ありし日の 師の笑み浮かぶ 梅雨の空』とおくらせて戴きました。

  TVは落語家がスターの時代で「笑点」はもちろん「お好み演芸会」「末広珍芸シリーズ」「大正TV寄席」「やじうま寄席」まで食い入るように見る子供でした。踊りや詩吟を嗜む祖父に殊の外可愛がられ年寄り連中の間に良く連れ回された事、母が芸者だった事等、芸人に成るべき土壌は整っていたのです。 

  中学の時に「男子バレーボール・ミュンヘン・オリンピック金メダルの快挙」の余波を受けてバレーボールブームだったので、バレー部へ。 

高校まで6年間アタッカーで頑張りましたが、尽く弱いチームで余り結果は出せませんでしたが、練習は良くやりました!今では良い思い出です。因みに181センチになったのは落語家に成ってからです。 
本当に6年間毎日毎日バレーボール三昧、勉強は殆どしませんでした。 
高校生の有る日、急に落語に目覚めもう一人の落語好き友達とテープを聞き捲りました。予断ですが算盤も持ったこと無いのに商業高校に入ったのは、芸者の母が「知り合いの先生が沢山いるからあそこなら絶対大丈夫」と言ったからです。 

 高校2年の夏の有る日、その芸者の母が「落語家に成るんだったら知り合いに頼んであげる」と言い出しました。今思えばこのままでは大した企業にも就職出来ないし、超優秀な姉やコンピューターの専門家にまで成った兄に競べて、明らかに生彩を欠く末っ子に対して母が打った大ばくちだったのでしょう。そして、運命の日を迎えたのであります。始めてあった師匠柳朝は「水割り40杯飲んで倒れてホヤホヤ」の状態でありました。「俺にもしものことがあったらここにいる{小朝}の弟子にする」という条件のもと入門を許されました。春風亭勢朝の誕生です!1979年(昭和54年)の8月の有る日でありました。 

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